Meet Me in “セントラルアパート” 髙平哲郎さん

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いつか大好きな髙平先生のインタヴューをしたいと思っていた。どれぐらい好きかと聞かれると、先生が構成を担当した『今夜は最高!』をYouTubeでイッキ観した。そしてボクの書いているこの記事の見出しは髙平先生の著書『今夜は最高の日々』をオマージュしている。それくらい大好きだ。先生の事務所『アイランズ』に意を決してメールを送ったのは3月初め。ちょうど東京で桜の開花宣言が出された日だった。メールの返事は「いいですよ。喜んで」

こんなにもあっさり決まってしまうとは夢にも思わなかった。

先生のご自宅は軽井沢にある。「4月の頭は何日か東京へ行くよ」とメールの最後に書いてあった。今度先生が演出する新しい舞台が渋谷にあるシアター・アルファ東京で上演されるそうだ。取材当日はその舞台の稽古を荻窪で行っていた。同行のノリさん、お供のたいやき30匹と稽古場の扉を叩いた。

舞台正面の椅子に掛けていたのは憧れの、大好きな、かっこいい髙平先生だった――

As time goes by / 時の過ぎ行くままに 

えーっと、髙平哲郎です。漢字「“髙”平哲郎(たかひらてつお)」ね。高倉健さんも同じ“髙(はしごだか)”かとおもったら、健さん高の方だった。だから今は髙島屋って言うようにしてる。

昭和22年、西暦で言うと1947年。1月3日生まれ。本当の誕生日は21年の12月23日なんだけど、届け出は年明けてからなんだ。当時の皇太子殿下(平成天皇)と誕生日が同じでね。だから高円寺の皇太子って言われてた……そんなの嘘だよな(笑)。

カメラ目線はねNGなの、恥ずかしがり屋だから。自分の番組『今夜は最高!』に出たのは1回だけ。知らない間にカツラなんて被せられて、「そこ歩け」とか言われちゃってさ。そのかわり周りの制作スタッフはよく出してたよ。

オリンピックのときはたしか高2だったなぁ。あの頃の原宿ってのは閑静な場所だったね。

ボクはジャズ好きでさ、LP聴かせるジャズ喫茶に通ってたなぁ。ただジャズ喫茶ってのは新宿が一番多くてあとは銀座とか渋谷。ジャズじゃないからボク興味なかったけど、原宿に『ペニーレイン』ってレストランバーあるだろ。あれができたのは70年代か。まぁだから原宿ってのは60年代何もなかったな。

今じゃ到底信じらんないよな。場所は違うけどその頃の六本木は交差点に古本屋が3、4軒あって、後はハンバーガーインくらいしかなかった。そんな時代だよ。

だから70年代からだな、原宿に通うようになったのは。

あの頃竹下通りの出口のかどにもう一つ四川料理食わす店あったな……あと原宿駅出て表参道のすぐ右側にある『コープオリンピア』ってマンションあるだろ。あの中に気取ったハンバーガーを出す「ダイネット」とかいう店があった。そこのね、シェフサラダが好きだった。あとルートビアも出してたな。

当時は珍しかったね。瓶に入ったルートビアなんて。

うん、そうだな、外国みたいだった。

Rent / レント(家賃は滞納はしていないけどね)

セントラルアパートに越したのはいつだったかな。大学2浪してるからね。それから広告代理店へ行って、雑誌『宝島』創刊に携わって。ボクがやってたときは『ワンダーランド』って呼んでたけど。

ちょうど『宝島』を辞めるときだね。だから結局越したのは78年かな?書いたもん見ればわかるよ。 (著書では75年6月1日とある)
浅井慎平さん(写真家)に「使って無い部屋があるから来ないか」って誘われて浅井さんの事務所に同居することになったの。浅井さんの事務所は二階の角部屋にあって、二部屋あるんだけど、その一部屋を借りていた。今や編集業界で大御所の津野海太郎、物書きの片岡義男、デザイナーの平野甲賀、編集者の青山貢、浅井慎平、そんなところかな。ボク入れて6人くらいで『アイランズ』って結成した。(片岡さんが自分の島をそれぞれが持つということで名付けた)

基本的に事務所にいたのは平野さんとその助手、それから事務所の秘書みたいな人が常駐してた。ボクは行ったり行かなかったり……。ま、編集集団っていうか、なんだかよくわからない事務所だったね。

あのアパートには中庭があって回廊式になってた。家賃は15万。浅井さんと折半してた。ボクはその頃ラジオのCMとか、小冊子とかやってたね。よくあれで金になってたなって思うよ。
入居者はイラストレーターとか写真家とかの事務所が多かったような気がするよ。70〜80年代は別の意味での花形だったね。(この頃はそういった職業が文化面での花形だった)いま有名な写真家やイラストレーターの名前はパッと出てこないだろう。

あと『話の特集』の編集室があった。あれこそ原宿文化を象徴した雑誌だろうね。よくセントラルアパート上から下までぐるっと一周したら雑誌が1冊できるって言ってた。それくらい写真家やイラストレーター、デザイナーがたくさんいたね。やっぱりあの頃の原宿の文化の中心だったからね。

(『話の特集』とは1965年に創刊された雑誌。反権威の雑誌として若者世代から支持を集めた)

Days of Wine and Roses / 酒とバラの日々

タモリに初めて会ったのもその頃。新宿の『ジャックと豆の木』ってスナックで漫画家の高信太郎さんが「タモリっていう面白いやつがいるんだ」ってさ、紹介してくれた。

あの頃タモリは赤塚先生(漫画家・赤塚不二夫)のとこに居候してたね。夜『ジャック』に現れてはショーをしてた。そうすると昼間なんにもすることないから、タモリはずっと『アイランズ』に来て、冗談でね電話番なんてしてた。

その頃は『ジャックと豆の木』のママの柏原A子っていうのがタモリのマネージャーやってた。A子ってアルファベットのAのね。で、A子さん「オフィス・ゴスミダ社長」って名刺作ってたなぁ。「ゴスミダ」ってな、タモリが韓国語の真似するときに必ず語尾につけるんだよ。それで『オフィス・ゴスミダ』

ある日そのA子が真面目な顔して『アイランズ』にやってきたんだ。「あのぉ、ウチのタレントのタモリのことなんですが……」って調子でさ。それまで店の中でタモリが披露してた芸を『アイランズ』で扱ってほしい。タモリを移籍させてくれってさ(笑)。「1週間ほど考えさせてもらいたいんですが」とかもったいぶって見せて、その場でアイランズ所属を決めた。

それからタモリを知り合いのディレクターとか芸能人に売り込んだ。どっかのお店の個室借りて芸披露させたりね。

ボクはどうやって食ってたんだろうな。やっぱりラジオ番組の構成とか、CMとか、映画評書いたりとかしてたんだろうな。『宝島』にいた時くらいの稼ぎはあったんじゃないかな。

若い人たちに言うなら、稼いだお金は使わない方がいいってことだね。貯めておけ。老後苦労するから(笑)。

81年だったかな、調べればわかるよ、『笑ってる場合ですよ!』が始まってから生活が楽になった。(番組開始は80年)2部屋だけじゃ手狭になったから、同じセントラルアパート内の広い部屋へ越した。80年代はテレビの仕事増えたね。『森田一義アワー笑っていいとも!』に『今夜は最高!』でしょ、『オレたちひょうきん族』もあったな。今でも「放送作家」って呼ばれ方は慣れないね。当時のテレビ局がタモリみたいなのは使い方がわからなかったから。それでいつしかタモリとセットで構成することになってた。ボクがなりたくてなったわけじゃないんだな。

でも一時はボクの名前がテレビに出ない曜日は無かった。何年か前に中居正広くんが全曜日制覇したいとか言ってたよな。ボクも昔同じようなこと言ったことある(笑)。

That’s Entertainment /  ザッツ・エンターテイメント

初めて舞台の仕事したのは76年か77年だな。タモリがレコード出したんだよ。その発売記念で紀伊國屋ホールを1週間おさえてもらった。で、タモリだけじゃ客が入らないから『東京ヴォードヴィルショー』って当時話題だった劇団とセットで『タモリ・ヴォードヴィル・ウィーク』ってのをやった。それから80年に同じ劇団で『七輪と侍』って『七人の侍』のパロディをやって演出家デビューした。「演出家になりきらなきゃだめだ」とか言われてさ、長めのコートにレインハットかぶったよ。帽子はなかったから伊勢丹で買ってきた。で、やっぱり無精髭だな、ってことになったけど、髭は薄いからダメだったね。

(筆者:舞台初日を引き締めるため、悪くも無い劇団員を怒鳴ったりしたんですよね?)

そうね、悪くもないのに怒鳴ったり。知ってるじゃないか。聞かなくてもそのまま書けゃいいじゃん(笑)。

I got rhythm / アイ・ガット・リズム

うん、舞台は好きだね。好きだし子どもの時から宝塚劇場の東宝ミュージカルってよく観に行った。ミュージカルって言っても“歌が2、3曲あるだけのアチャラカ”(軽演劇の中でも特に喜劇性の強いもの)だったな。で、だいたい原作は菊田一夫。ボク小学校の時から菊田一夫になりたかったもんね。出るほうじゃなくて、映画監督とか、菊田一夫さんみたいなのがいいなって。小学校の先生がボクの結婚式で「髙平くんは小学生のときから変な子で、みんな集めてシェイクスピアごっこしたいって言ってました。そんな小学1年生初めてです」なんて言われちゃった。

親がそういう仕事してたわけじゃないんだ。父親はほら、産婦人科医だったから。ただ13歳離れた姉や母親に宝塚劇場へよく連れて行ってもらった。それから映画ね。親父が西部劇とかギャング映画とか、そういうのが大好きだった。親父と近所の映画館へよく行ったよ。でさ、映画を観てる途中で看護師さんが「先生、患者さんです」なんて言って入ってくるの。ボクは残って観てたけど、親父は結末知らないから、そうするとまた次の日に「おい、続き見に行くぞ」なんて言われるんだよ。

ジーン・ケリーとかフレッド・アステアとかは姉貴に覚えさせられたね。あんまり長々とこの話してるとこういうオチになりそうで嫌だなぁ……。

On the sunny side of street / 明るい表通りで

で、何であの話に来たんだっけ。話を戻さなきゃ、原宿に戻さなきゃって思っちゃうね。今って原宿は若者の街だろ。80年代に入るともうその雰囲気はあったね。竹の子(竹の子族のこと。原宿の歩行者天国で派手な衣装をまとい、ディスコサウンドに合わせてラジカセを囲み路上で踊っていた)もその頃かもなぁ。ボク興味なかったね。だからあれはフィルムでしか見たことが無いの。30超えてたしね。山田邦子とかビートたけしの店ができたのが84年かな。(タレントショップが竹下通りにできたのは80年代後期)その頃は人が多くてもう外歩くのも嫌だったね。

セントラルアパートの立ち退き勧告が来たのも同じ時期だったかな。もしかしたらそれより前かもしれない。で、その立ち退き料を元手に乃木坂に新しいアイランズの事務所を構えた。良いところだったよ。良いマンションでね、靴履きの新しい感じだった。靴履きなんて言わないね。土足っていうんだよな。ボクの知ってた新宿も銀座も渋谷も、そして原宿もすっかり変わった。他の東京の街と同様、今や“他人の街”って感じだなぁ。

(2023年4月5日・オメガ東京にて)

「ぼく自身は植草さんを代表とするサブカルチャーにワクワクしたのは六〇年代で、二〇代前半から三〇代前半までの七〇年代はサブカルチャーの送り手になっていた。
(中略)
植草さんが亡くなって遊びのような七〇年代は終わり、八〇年代になると、その遊びが仕事になり、やがてバブルを通り越して、あまり楽しくない九〇年代を迎えることになる。単行本にする今、あらためて七〇年代がどんなに楽しかったかを再認識させられた。」

晶文社 髙平哲郎『ぼくたちの七〇年代』より

Unforgettable / アンフォゲッタブル (あとがき) 

この取材のなかでボクが思う重要な先生の言葉がある。それは「“歌が2,3曲あるだけのアチャラカ”」という先生の言葉だ。これがきっと「バラエティショー」のことだろう。本来の「バラエティショー」ないし「バラエティ番組」には歌があって、演者らのトーク、踊りがある。

先生のバラエティといえばやはり「今夜は最高!」が頭から離れない。この番組の流れを説明しよう。まずオープニングではマンハッタンの摩天楼の間からタモリが顔を出す。続いて先生が手掛けるスケッチ(コントと同義、この番組では名作映画などのパロディが多い)。タモリが織りなすゲストとの軽妙なトーク。またスケッチ。そしてゲストの歌。これは歌手であってもゲストの持ち歌ではない。最後はタモリがオープニングで出たマンハッタンの夜景の中に消えていく。まるで1冊の雑誌を読んでいるかの様な番組だ。
これは先生が持つバラエティやエンターテインメントへの愛とも言える。幼少期から青年期の舞台や映画の体験に、先生の生み出すエンターテインメントの根があると分かり、更に先生の舞台が好きになった。

憧れの髙平先生にお話を聞けたこと。その中でも先生の声で、先生の70年代について語って頂けたこと。そして、先生の原点の様なものを垣間見れたこと。いちファンとして嬉しかった。まさに、ボクにとって“Unforgettable”な取材だった。

◾️髙平哲郎(たかひら てつお) 略歴
1947年東京生まれ。一橋大学社会学部卒業。広告代理店、雑誌『宝島』編集部を経てフリーランスとなる。テレビ番組『森田一義アワー笑っていいとも!』『今夜は最高!』『ライオンのいただきます』等の構成。ステージショー、演劇などの演出・翻訳、および編集者として今も活躍している。主な著書に『みんな不良少年だった』『スタンダップ・コメディの勉強―アメリカは笑っている』『今夜は最高な日々』などがある。

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