憧れの街が今のベースへ 原宿神宮前商店会会長 早川千秋さん

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原宿表参道新聞アドバイザーであり、原宿神宮前商店会会長である早川千秋さんにお話を伺いに、早川さんが取締役を務めるウラハラにある株式会社ジムを訪れました。

早川さんは「原宿Kawaii文化」の立役者のお一人であり、またウラハラ(渋谷川遊歩道(通称キャットストリート)付近を指す)の創世記を知り、現在は「ウラハラプロジェクト」のリーダーとしても活躍されています。

そんな早川さんの幼少時代からファッションに進むきっかけや現在の活動までをたくさん興味深いお話をしていただけました。

変わらない原宿表参道への憧れ。

ーー早川千秋さん(以下早川さん)

東京生まれなんですけど、親の転勤が多くて色んなところに住んでいました。子どもの頃は父親の会社の研修施設が参宮橋にあったので、代々木公園によく行ったりしました。当時、東横線沿いに住んでいたこともあって、渋谷にはよく来ていましたね。

小学6年生の時の社会科見学で、バスで原宿や表参道を通った時に、この光景はいったい何なんだろうって痺れてしまって。元々洋服とかも好きだったし、お洒落なこの街に住んでみたいなと小学生ながらに思いました。

その後引越しをして、中学の2年から高校3年まで福岡に住んでいました。その当時、雑誌で原宿特集や渋谷特集がたくさんされていて、転校生の私に「ここはどういうところなんだ」と周りの友達に質問されるんですよ。今まで頻繁に連れて行ってもらっていたところが遠くに感じてしまって、その時に大学は絶対に東京に行って、またそういう文化に早く直接触れたいと思っていました。

充実した学生時代、視線の先には最先端。

ーー早川さん

大学は東京に進みましたが、地方にいたことでむしろ都会に対する憧れとか思いが強くなって、早く自分のフィールドにしたいなと思っていました。サークルでは部長をしたり、アルバイトでは当時流行っていたアイスクリーム屋やカフェバーなど、最先端の流行の匂いがするところに首をつっこんでいました。

就職活動では、公務員や金融関係に進んでいる先輩が多かったので、自分もそのような就職先を探していました。でも世界を回って帰ってきた両親に急に、一回就職活動をやめて海外に行ったほうがいいと言われて(笑)。元々興味もあったので、ロンドンのケンブリッジに一ヶ月ちょっと短期留学をすることにしました。

ロンドンのシティっていう金融街を訪問したり、証券会社で海外に赴任しているOBに会ったりしました。そして戻ってきた次の日に、就職面接で「昨日ロンドンから帰ってきました」と自己PRをして合格しました。その時は「ウォール街」という映画の証券マンに憧れていたので、原宿とは少し離れていましたね。

就職先は金融系の会社で、300人くらいいる同期と飛び込み営業をして競い合う日々でした。でも金融会社の商品はそんなに変わらないから、ここで夢を語るのは難しいなって思っていたんです。そんな時に仲の良かった同期に転職を考えているという話をされて、自分も転職に興味を持って、転職雑誌を買って見つけたのが、ちょうどその時原宿に本社があったレナウンという会社でした。元々ファッションに興味もあったし、違うフィールドでも輝けるかもしれないと思って転職を決めました。

ファッションの道の第一歩と運命の出会い。

ーー早川さん

レナウンで最初に配属されたのは婦人服の営業で、いきなり門前仲町に行ってくださいと言われて(笑)。想像していたのはロンドン、パリ、ニューヨーク!みたいな感じだったのでちょっと違うなと思いつつ、3年くらい働いた後に本社の方に異動になり資金運用などをやることになりました。そこから原宿が自分の勤務地になったって感じです。洋服の営業や経営側の仕事もやれて、細かいことまで知ることができてとても勉強になりました。

その当時お付き合いしたのが、今の会社の会長の娘である今の奥さんです。僕は転職組なので彼女が同期ってことを知らなくてたまたま会議の時に初めて会ったんです。そこで他の同期たちに彼女は生まれも育ちも原宿で、商売やってるところの娘さんなんだよという紹介をされて、そんな人いるんだってご縁を感じて、お付き合いするようになりました。

その後、お義父さんであり会長の八木原に挨拶に行ったら、物作りをやったらどうかっていう話になって、お手伝いすることになりました。そして原宿にあったファッションの専門学校に通って実際にミシンを踏んで洋服を作ったり、デザインを勉強しました。そして、結婚と同時にレナウンを辞めて今の会社に入社しました。

流行発信と原宿・表参道への想い。

ーー早川さん

それからは企画をやりながら路面店もやらせてもらうことになり、特にメンズのニットをいろいろ開発して結構ヒット作も出て一世風靡したこともありました。レディースではゴスロリ系に着目して原宿ファッションとして仕掛けたら大ヒットして全国で話題になりました。海外にも当時外務省カワイイ大使で世界でも大人気の青木美沙子さんとイベントに参加して『Kawaiiファッション』として引っ張りだこになりました。そんなことをやって、いろんな角度でいろんな人たちと接点を持つようになったのがこの30〜40歳の時で本当に激動の10年だったなと思います。

母体ではメンズのしっかりした品質でトラディショナルな不変的な物作り、小売店の方ではオリジナルのものを差し込んでヒット商品をボンボン出して行った感じです。常に自分達のポリシーを持続させることに加えて、時代の流れを勘付きながらやっていたという感じです。今振り返るとこの会社に入って沢山のトレンドに遭遇して、更に会社自体が原宿という街に根付いていて、説得性もあってうまくいったのかなと思います。

商店会長になったのもご縁がありこのコロナ禍のタイミングだったし、この街に関わることが自分の宿命なんだなとも思っています。地方にいたこともあって原宿表参道に憧れがずっとあって、発信性があることも知っているからこそ、この地に対しての想いも強いです。

これからの活動と次の世代へ。

ーー早川さん

1995年に住み始めた時はウラハラ辺りはファッションの街としては全然まだまだで住宅地という感じだったんですけど、ぽつんぽつんと軒先を借りて、店舗を始めているところが出てきました。原宿の歴史は意外に戦後からと短くて、特別用途地域、文教地区だったこともあって健全な街なので、ファッション系のものが集まりやすかったんだなと思います。ラフォーレ原宿のグランバザールというセールの時には、スタッフはみんな徹夜して、お祭りみたいに売り捌いたり(笑)、そういうのも楽しかったです。

自社で小売店をやっていた場所は、現在不動産賃貸へ移行し卸売業の方を強化しつつ、商店会とかまちづくりなどの地域貢献にも積極的に動き出しました。今までの活動の集大成として発信する場所もあるし、街一つを考えた時にそこを面としてどう表現するかですね。普通の商店街と違ってスニーカー通りがあったりファッションだけじゃなくてギャラリーができたりファッションと直接関係のないようなグッズがあったり、歴史が長くないからこそいろいろと変わることもできて、多様性があって、いろいろなチャレンジができる場所なので、若者の皆さんにはどんどん挑戦してもらえればこれからも面白くなるんじゃないかなと思います。

編集後記

早川さんのお話を伺って、洋服を買いに原宿表参道に出かけたくなりました。ファッションで気分が変わったり元気が出たりするので、生きる上で重要なファクターなんだなと思いました。また、取材後にかなりコアなアイドル話で盛り上がり、アイドルオタクの私はとても楽しく、早川さんの意外な一面を知ることもできました。

早川千秋 略歴

地域社会貢献活動と本業のファッション業界発展活動の橋渡しを日々行っている。

現在は、
原宿神宮前商店会 会長
URAHARA PROJECT リーダー
FM『渋谷のラジオ』理事・ナビゲーター
(公社)渋谷法人会 理事
(一社)日本メンズファッション協会 上席執行役員 
ベストドレッサー賞 実行委員長
原宿警察署 評議員 他
本業は(株)ジム、及び(株)ハイパーハイパー 専務取締役として、アパレル業界で活動

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